江戸時代にも防災指南書は存在していた
現在では目にする事も多くなった防災マニュアル。
主に各自治体や地域ごとに選定された内容を盛り込んで作られています。
特に各地域ごとの避難場所などの明示は有事の際だけでなくあらかじめ読んでおくことで迅速に避難が出来ると言う利点があります。
実は、この様な防災マニュアルが古くは江戸時代から存在して居た事はあまり知られていません。
江戸時代の震災と言えば安政の大地震がありますが、既にその当時有事用に整えられた指南書が存在したらしく、実際震災があった当日から各要所毎で動いたと言う記録があります。
今回はその内容について記述してみたいと思います。
各対応がとにかくスピーディー
参照記事:http://news.livedoor.com/article/detail/10786803/
今回参照させて頂いたのは上記のライブドアニュースに11月3日付で載っていた物になりますが、私も初めて読んでその対応のスピード感に驚きました。
安政の大地震があった半日後には千坪分の避難所が作られていたり、応急手当てをする場所が設置されたりととにかく行動が早いです。
これだけにとどまらず、炊き出しや買い占め禁止令が出されるなど大都市として有事の際に見事に機能していたと言えます。
今と違いテクノロジーも普及していなかった江戸時代にこれだけの対応が出来た事は違和感を覚える程イメージとはかけ離れた物でした。
更に翌日には値上げ禁止令も出され、被災後の江戸の住民が元の生活に戻るための施策は万全と言えるレベルではないでしょうか。
安政の大地震ではおよそ1万4千棟の家屋が倒壊したと言う記録が残っていますが、地震の後に脅威となるのが火災です。
特に当時は木造の建築物がメインですから、一旦上がった江戸の火の手が広まるのは容易に想像が付きます。
しかし、それすらも迅速な消火活動のおかげで想定しうる参事を回避したと言う事ですから驚きですね。
安政の大地震はマグニチュード7クラス
現在の調査では安政の大地震はマグのチュード7前後と言われています。
発生日時は1855年の10月2日、夜22時頃の事と見られています。
地震後最初に対処されたのが消火活動で、地震の規模が大きかった事から火災の際に鳴らされる鐘の音も聞こえなかったと言われています。
それでも積極的に奉行所が動き、延焼を防ぐために風下の家屋を壊して回ったと言います。
直接消火栓などで鎮火にあたる現在とは大きく違いますが、最終的に負傷する人の数を減らす事が大前提ですから結果的に見事な消火活動と言えるのではないでしょうか。
焼け出された町民に対する緊急の避難所「お救い小屋」は事前に建設過程がマニュアル化されていたため、ストックしてあった資材を効率良く使いここもスピーディーに建てられています。
参照元の記事にも書いてありましたが、技術力もさることながら一番はその決断の速さがポイントではないでしょうか。
ネットワークの普及した現在ではこの決断に要する時間や引いては行動に移す時間という物にタイムロスが生じている気がします。
災害が大きくなればなるほど簡単な決断では済まない事は理解できますが、ここでどれだけ早く対応できるかが被災のケアに大きく関わってると感じました。
大規模な炊き出しによる施し
今でも震災後は現地で炊き出しを行うボランティアの人の映像をニュース等でも見ます。
先ずは食料を確保、提供する事が被災者に対して重要になりますが、安政の大地震の際にも炊き出しが行われたと言う記録があります。
それもかなり規模の大きい炊き出しで、3週刊後も続けられた結果のべ40万人の被災者の元に握り飯が届られた事になるそうです。
当時の国の財政に大きな打撃を与えた事は想像に難くないですが、最終的にそのしわ寄せは江戸の住民に寄る事となります。
江戸時代の末期には幕府は金欠に陥り、金銭的な負担はこの段階で江戸の住民に来たようですが、先ずは目の前の災害による被害に対して迅速に行動した事と、被災者に対して施しを行った事はすごい事だと思います。
もちろん現在とは比較できない部分も多いと思うので、今では負担も無く容易に行える事も多いと思いますが逆に一貫してこの決断力、行動力は見習うべきものがありそうです。
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